いま私は演劇というものをやっています。やっているつもりです。
ツイッターほどの短い文でも誤字脱字するような私が、
演劇を書くことになるとは少しまえまで想像もしていませんでした。
それでも最近は、言葉というのは自分たちが体験したことを忘れないためにあるのだろうと思いつつ、
今日もまたこの劇と向き合っています。
いま、人になにかを伝えるために、それが言葉である必要をときに感じてさえいます。
しかしながら、本当に伝えたいことなんて、ないと思えばないし、
あると思えばあったりするような、不確かな私です。
ただ、「ある」と思って日々を生きるほうが幸せだろうと、誰かに言われているように思います。
こんな私でもやっぱり生きているあいだに幸福について考えたりするのです。
それは同時に、死ぬことについて考えることでもあります。
いつか私たちは死ぬでしょう?それはどうしたって避けられないのでしょう?
自分の死体を想像します。動かなくなった体を。私たちは必ず死体につながっています。
死体に未来を感じ、生きていることだけがすべてではないと思いはじめます。
体を失っても、ときに感覚は残るように、
声はなくても、ときに言葉は残るように、
やっぱり死体に未来を感じます。
いまから50年もまえに、路上を放浪し、ヒッピーの神様とまで崇められた彼は、
行き着いたその果てで「そこにはなにもなかった」と言って死にました。
「ただそこには風景があった」と。
私は最期にどんな風景を見るのでしょうか?
そんな風景を、演劇をとおして、言葉をとおして、どうしても伝えていきたい。
未来のために。たったいま死ぬかもしれない私たちのために。 矢内原美邦(2012.3.19)
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