今回の作品のタイトルは「see/saw」です。 おそらくは誰もが子どもの頃、一度は遊んだことがあるシーソー。 語源はsee「見る、反復する」+saw「のこぎり、前後に動かす」らしいですが、 この"see"と"saw"という現在と過去の単語がひとつになったこの言葉からは、 さまざまな記憶のイメージが浮かんできます。 ギッタン、バッコンと上になったり、下になったりを繰り返しながら、 それぞれの高さで、僕らはそこからなにを見ていたのでしょうか? そしてそのとき、向こう側のもう一方には誰が乗っていたのでしょうか?
やがてシーソーが傾いて、 一方に乗った君が跳ね上がったときに見た風景を、 もう一方で沈む君が想像するところからはじめます。
これからやってくる日々を思い出し、それまでやってきた日々を綴り、 どうしてそれが選ばれて、どうしてそれは選ばれなかったのか、
君は考え、ある日に生まれ、ある日、死に、 ここではないどこか遠くで見た風景を想像して、
「見た?」と聞くと「見た」と君は答える
人は人が死ぬとおそらく世界中、宗教に関係なく、花を供えるようです。 なぜ人は死者にお花を供えるのか。 そんな素朴な疑問からこの作品は始まっています。 人の死はきっと、死ななかった人にとって、それぞれの風景でつながっているように思います。 きっと花はその風景を象徴するものだと仮定します。 死ななかった人は死んでしまった人との記憶にある、いつかの風景を花として供えているようにも思います。 もちろんそれがたとえ同じ風景であっても、それは人それぞれで違います。 その人が生まれてきた環境や、時間、その関係性や、もちろん思考や価値観、宗教、身体によっても違うでしょう。 自分がシーソーに乗っていると例えるならば、その高さや低さ、重さや軽さ、またはそのスピードによって。 人はそうした時間を積み重ねることによって、いろいろなことを知り、記憶し、 自分の人生にたいして、または死にたいして、主観的になっていきます。 自分がシーソーに乗っていると例えるならば、もう一方には誰が乗っているのかを想像することができるか、どうか。 そしてのその誰かは、自分か、他者か。 人が一輪の花を人に捧げる瞬間、今までのその人と、これからと、たった今との、それぞれの距離を感じながら、 同時に自分の死をかすかに予感しながら、そしてそのことと距離をおいて生きながら、 どうすれば自分の生とか死とかを客観的に見つめなおすことができるのか考えたいと思います。 これは記憶についての作品ですが、いろいろな人のそれぞれの記憶の断片を集めて、作品自体を記憶化するイメージです。 見る、と、見た、その間にある風景について。