「桜の園」2014

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「桜の園」Digest

「フェスティバル/トーキョー2014」参加作品

「第4回烏鎮演劇祭」にて評価委員による最高点作品受賞作品

2014. Nov. フェスティバル/トーキョー2014 at にしすがも創造舎
2016. Oct. 中国烏鎮演劇祭参加

 

作・演出 : 矢内原美邦

出演 :
笠木泉 鈴木将一朗 光瀬指絵 山本圭祐 川田希
川上友里 菊沢将憲 佐々木至 細谷貴宏 橋本和加子

 

舞台監督:鈴木康郎
映像:佐藤信介
美術:曽我部昌史
照明:伊藤馨 衣装:スズキタカユキ
ヘアメイク:河西幸司

1本の老木をめぐる3つの物語。時代の転換点に浮かび上がる多様な思考。

チェーホフの名作『桜の園』をベースに矢内原美邦が独自の視点で描いた1本の老木をめぐる3つの物語。
この木を伐るか、否か。そこにはそれぞれの主張があり、賛成があり、反対があり、いくら言葉を費やしても果たしてそこに正解はない。言葉は意味を失い、時間を失い、どこか遠くのほうをさまよいはじめる。
もう誰も信じない... 君が「そうだ!」というまえに、私はその言葉を意味をかっさらってみせる。

不確かな未来へと漕ぎだす私たちに送る物語。

矢内原美邦コメント

 演劇(と呼ばれるような)作品を作るようになって10年近く経つ。始めた当初はこんなの演劇じゃないとか、ただ喚いてるだけだとか、ある作品のアンケートでは「ゴキブリ演劇」とまで書かれながらも、ここまでやってきた。「ゴキブリ演劇」とは、これ名言!「ゴキブリ」でもけっこうだが、いちおう「演劇」と呼んでくれるのかとひそかに嬉しく思った。そもそもニブロールでダンスを作っていても、あれはダンスじゃないとか、暴れてるだけだとか言われてきたし、いまさらなにを言われてもへっちゃらである。私にとってそれが演劇かダンスかという分類にはあまり意味がない。それでも言葉を主として扱う舞台芸術が演劇と呼ばれるのなら、私はそのフィールドで勝負したいと思っている。
 出演する役者たちに言わせると、私の書く言葉は独特らしい。独特というと聞こえがいいが、要は発声しずらく、覚えずらい。ということらしい。それは普通の人が言葉を選ぶまでの経緯というか、言葉として結びつけられるまでのイメージの通り道が違っているからかもしれないとなんとなく思う。作品を観た人に、言葉が先にあるのか、体が先にあるのか、とよく聞かれる。どちらが先か、というよりも、たとえば詩人たちが意味の付随する言葉たちをはるか遠くへ押しやるように、私も意味が付随するまえの言葉をかすめとるように捕まえたいとは思っている。意味なんかに意味はない。と、ときに思う。
 たとえばいま右の手に1という数字と、左の手に3という数字が想像できるなら、その間にあるはずの架空の2という数字を思い描く。そして「ワン、ツー、スリー!」と言ってみたくなる。それをノートにメモしたくなる。そんな衝動に突き動かされて言葉をとらえたいと私は思っている。右手と左手の間にある言葉が架空なら、そこには未来も過去も現在すらなくて、時間を失った言葉たちはどこへ向かうのだろうかと想像をめぐらす。どこか遥か遠い場所をさまよって、やがては「ワン、ツー、スリー!」というひとつのかけ声になって、私の体を突き動かすだろうか。そんなふうに言葉にたいして向き合うときがある。そこにはまず体がある。右手と左手がある。「ワン、ツー、スリー!」と体が動いたとき、その次にどんな言葉が発せられるのか。考えるまでもなく言葉は落ちてくる。それを言葉の世界の人は感覚的だとか、意地の悪い人であれば単なる思い付きだと言うのかもしれない。それでも私にとってそれらは偶然な言葉ではない。言葉にたいして体が動くのか、それとも体にたいして言葉が発せられるのか、私にとってそれは重要な問題でもある。「そうだ!」と言って拳を突き上げるのか、突き上げられた拳に「そうだ!」という言葉を見つけるのか。そこの境界線を行ったり来たりしながら、言葉というものを探っている。
 今回の作品「桜の園」は、一本の桜の木をめぐるいくつかの物語で構成されている。桜を伐るか、否か。そこにいる人たちにはそれぞれの主張があり、賛成があり、反対があり、ある人の意見は一見正しいことのようでもあり、もう一方は一見悪いことのようでもあり、果たしてそこには正解はない。ただ彼らにはそれぞれの正義がある。人間関係や、環境、生い立ち、そして社会的な立場などが、彼らにそれぞれの正義を与える。一本の桜の木をどう見るか。出演者にはできるだけ多くの視点で言葉を発するよう伝えた。役者の体が一本の桜の木を中心にいくつもアプローチを生み出し、台本はどんどん書き換えられていく。その言葉は机の上にはないと思う。ときに言葉は意味を失い、時間を失い、どこか遠くの方をさまよいはじめる。どこまでが体で、どこまでが言葉なのか。その境界線で揺れ動く言葉を、すり抜けながらかっさらいたい!そんなふうに思う。
 私は100年後には確実に死んでいるわけですが、きっと言葉は残る。今の現状からの脱却が未来のない未来につながる。ような気がしている。言葉を書くということはきっとみっともない体をさらけだしながら生きることを見つけるようなものなのかな、と最近思っている。それを出演者たちと共有し、観客と共有できたら、それでこの作品はオッケーなのだ。

photo:Yohta Kataoka

- Review -

呂彦妮(フリーライター) 批評ポータルサイトポータルサイト「捜狐」より一部抜粋

舞台は終始、極致的な退廃さとアニメのような自嘲で満ちている。役者たちは、疲労が極限に達するまで、高速回転で、ぴったり息を合わ せてセリフを掛け合い、叫び、反復し、自分以外の人々を非難し続ける。登場人物たちは自身の置かれた境遇には気付かず、観客はその姿 に思わず笑い、そしてぞくっと寒気を感じる。 矢内原は、舞台上で「絶対に倒れない」エネルギーを演出するが、観客は”世間”と”生活”に対する言い知れぬ無力感に襲われる、これがこ の作品の面白いところだ。人は、なぜこんなに自尊心が強く傲慢なのだろう、一本の木も救えないにもかかわらず。

 

+総合文学ウェブ情報誌 文学金魚

+小劇場レビューマガジン wondeland

 

<中国烏鎮演劇祭レビュー(中国語)> 評価委員による最高点作品受賞

+北京青年デイリー

Flyer design:矢内原美邦 石田直久

- Credit -

音響:相川晶(有限会社サウンドウィーズ) 木下真紀
宣伝美術:石田直久 EBI
制作:奥野将徳(precog) 植松侑子・横堀応彦(フェスティバル/トーキョー)

製作:ミクニヤナイハラプロジェクト
共同製作・企画・主催:フェスティバル/トーキョー

 

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